昭和47年9月3日 特別奉修委員に対する親先生の御教話
(始めの間、録音されてない)…純粋かね。例えば、それこそ、あの、若い時の、あの何ですか、良い人にでも逢う前のようなときめきですかね、心に。それは、純だからです。もう擦れてくると、擦れっ枯らしになると、もう平気ですかね、それが。
だから、信心にはどうしても、その純なものがね、その要求されます。いわゆる、日に日にさらということ。日に日にさらということをね。ですから、あのー、口では見易いことですけれども、さらなものが出てくるということは、ね、ただ、さらな心になろうと思うてなれるもんじゃないです。ね。ですから、そのへんのところをですね、ひとつおかげ頂かしてもらおうと。
今日、先ほどお届けがあったんですけれども、もう二十年前に、私お取次ぎさせて頂いた方なんですけれども。此の方は、なかなか出来た方ですけれども、あの、二号さんの立場にあって。えー、その時に、もう帰らせて頂くという事だったんです。ところが、お取次ぎさせて頂きましたら、貴女がね、治まったほうがおかげということじゃった。だから、もう二十年このかた、もう相当の財産家でもありますし、えー、お家はお医者さんなんですよ。そこの奥さん曰く。治まっておられるわけなんですね。
ところがです、あの、それこそ、年に一遍か二遍か参ってきなさるか分からないのですけれども。それ以来、その時に頂いたみ教えを、ずーっとこう頂き続けておると、こう言うわけなんですね。
今日もやはり、あの、そういうことなんですけれども、実は大変な事が起こったというわけです。というのはね、もう本妻さんには、もう大学に行かれる程の子供さんがおられる。ですから、毎月五万円位のお金が仕送りが出来る。その、あっておるそうですけれどね。
その本妻さんがですね、帰って来るという電話が掛かってきた。親戚の方達は帰ってこいち、こう言う。ね。ところが御主人は、その、帰って、お前が帰って来るなら自分方に帰ってきちゃできんから、近所のすぐ向かい方に親戚があるそうです、だから、そこまでなら帰ってきても良いけれども、俺んところには帰って来てはでけんと。まあ、言うてはおられるけれども、側には帰ってこられるという事がです、その、やっぱ、今、本妻…。まだ籍が抜けてないそうですから、ほんとの意味で本妻じゃないでしょうね。けどもまあ、本妻同様に治まって、もう家の中の一切を切り回しておられるというな、また、そういう意味で出来た方なんですよね。
それでその、大変な事がやっぱ起こって来たわけですね。本妻さんが二十年ぶりに今度帰って来る。籍は抜けてないのだから、帰ってこれる訳なんです。息子も居るしですね。 それで、その事の御取次ぎをさせて頂きましたらね、もうこの辺までぐらいまである、昔の方は長い髪をしてましたよね。その長い髪を、こうきれいに梳きながして、あとまあ、二・三寸ぐらいのところを、こう前へやってから、こう、もう何遍かさえ梳かされるという。あの、そういうあれでしょう?。
今の方達は短かいから、こうこうだけでよかろうばってんね。(笑)。長い髪の人達は前さにもってくるて、もうずーっときれいに梳き流しちゃる。これが二十年間だろうと思います。ね。あともうちょっと僅かをですね、もう梳き流させて頂くばっかりだ時。
だから、その事を実を言うたら、そのきっかけを作る大変なおかげなのです。本妻さん帰って来るて言うて電話が掛かってきた。親戚の者も帰ってきなさいて言よるという程しのことがです。これは、だから私どもがね、ほんとにおかげな事をね、どうしてこんな事になってきたじゃろうか、大変な事だと言っておるような事がどのくらいかあるか分からない。ね。
ほんとに心の根をもってすると御礼を申し上げることの何でもないこと。もうその、だから、ここの梳き流しとらなければ結い上げることは出来ませんものね。ですから、もう、まあ、例えば、すくぐしで二くし三くし、こう、すいたら綺麗になるという前提だから。これは御礼を申し上げるべきですよと言うて、まあお取次ぎさせて頂いたんですけれどもね。だから、心配な事はありません。という訳なんです。
いや、むしろ御礼を申し上げなければならん。ただし、これからがね、もう二十年間も、只、ここに縁を頂いておるというだけでね、信心は出来てませんから。
これからは、髪を結い上げる。ね。こう髪を神。信心ということでしょう。信心をほんとに結い上げるという働きがなされた時、なされる時、貴女は、いよいよほんとのおかげ、いわゆる幸せなおかげが受けられるだろうという訳なのです。
ですから、勿論結い上げた髪は、また、こう乱れます。汚れます。また解いて、また。そういう例えば、お互いが繰り返しをしておるわけなんです。ね。ですから、あの、髪を崩すことも、また汚れることも、また洗うことも、また梳き流すことも、そして、また結い上げる、その喜びというか、楽しみというものがね、私どもの場合は、いつーも心の中にあるのではないでしょうかね。結い上げる楽しみといったようなもの。洗い上げる楽しみといったようなもの。それが何とはなしに、ちょうど、なんと言うのですか、いわゆる、「初心忘れるべからず」という、その初心の心がね、いわゆる、日に日にさらな心が湧く。だから、それこそ神様の前にずーっと座っとってから、いつも拝みよるという時にそげんなかろうごたるけれどもね。
けれども、てる為には、ちょっと、あの、心ばこう、落ち着けなければ御神前には、慌てて出られんというくらいに。はー、参って来てパンパンちいうてから他所向きながらこうこうしながら、そしてツーっとお話も頂かな帰っていくというような事が良かろう筈がない。
けれども、それは仕方がないけど、心に純な初心(うぶ)なものが無いからです。為には、いかにその、洗うことやら…、今朝の御理解ですね。
ほんとに、私はね、信心はそれを繰り返さして頂いていくことなんです。その方の場合は、二十年掛かって、ようやくこれだけ梳き流しが出来た。おかげで。あともう僅か、こうやって梳き流す。
私どもの場合、日に日にとでも、やはり新しい髪を結い上げていくというですかね。それを例えば、朝のすがすがしさ、昼のいそがしさ、夜の有り難さで決めていくわけなんですね。そういう、私は日々。
そういう、さらなものが生まれてくる。これは、同時にね、ここに、こがしこ、縺れてきた。本妻さんが帰って来ると言うてきた、といったような事柄なんです。お互いの家に起きてきておる、ほら、困った事ちゃある。難儀な事ちゃある。言いよることは、そら、実際はね、もうこの事を梳き流す前の前提なんです。
だから、ほんとに梳き流す気になって、御礼を申し上げながら流していくおかげを受けなければならないことを、困ったことのようにして、それには、手を腕くま抜いて、梳き流さんともせんならいつまで経っても結い上げることは出来ない、ということになるですね。 どうぞ。
入力者 末永 清和